英女性作家ドリス・レッシング、ノーベル文学賞受賞
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【10月11日 AFP】(10月13日写真追加、一部更新)スウェーデン・アカデミー(Swedish Academy)は11日、2007年のノーベル文学賞を英国の女性作家ドリス・レッシング(Doris Lessing)氏(87)に授与すると発表した。約半世紀にわたりフェミニズムや政治、幼少期を過ごしたアフリカを叙情的に描いてきた作品が認められた。
同アカデミーはレッシング氏について「女性性の経験を描く抒情詩人。懐疑的視点と情熱、深い洞察力をもって、分断された文明を厳しく見つめた」と評した。
1919年10月22日生まれで、次週88歳を迎えるレッシング氏は、1901年創設のノーベル文学賞受賞者として史上最高齢。同賞では女性作家として11人目の受賞となる。また、ノーベル賞全体を合わせても史上2番目に高齢の受賞だ。
11日、受賞が発表された瞬間、レッシング氏は買い物に出かけていた。談話を求めたAFP記者に、同氏の代理人Jonathan Clowes氏は「業績が高く評価されて光栄だ。われわれは心から喜んでいるが、本人は買い物に行っていてまだ知らない。彼女がニュースで知ってしまう前にどうにか連絡を取ろうとしているところだ」と語った。受賞を伝えた後、レッシング氏から談話を発表してもらいたいと述べた。
レッシング氏の扱うテーマは幅広い。最も著名な1962年の作品『黄金のノート(The Golden Notebook)』で、レッシング氏はフェミニスト作家とみなされるようになったが、常にこうした「レッテル貼り」を拒絶し、自分の作品が直接的に政治的役割を演ずることはないと語ってきた。
■レッシング氏経歴
レッシング氏は1919年に現在のイランのKhermanshahで、ドリス・メイ・テイラーとして生まれた。1927年に両親が当時の南ローデシア(現ジンバブエ)へ移り、人格形成期をその農場で過ごした。後に「地獄のように孤独な」育ち方だったと回想している。1939年、実家から逃げ出すようにフランク・ウィズドム(Frank Wisdom)氏と結婚。1943年に離婚するまでに2人の子どもをもうけた。
2人目の夫はドイツ人の政治活動家ゴットフリード・レッシング(Gottfried Lessing)氏だったが、1949年にまだ幼い息子と1作目『草は歌っている(The Grass Is Singing)』の草稿を手に英国へ渡り、同氏とも離婚した。人種的抑圧と植民地主義を焼け付くような鋭さでつぶさに描いた同作は翌年出版され、大きな成功を収めた。
ラジカルな政治傾向を有していたレッシング氏は英国共産党に入党するが、ハンガリー動乱の1956年に離党し、以降決別している。
1952年から69年の間に、マーサ・クエストと名付けた主役をめぐる5部作『暴力の子供たち(Children of Violence)』を出版し、作家とフェミニストという2つの評価を確立した。この評価について、レッシング氏はかたくなに否定し続け、「私は60年代もそれ以降も、活発なフェミニストではなかった。(フェミニスト運動は)イデオロギーに依拠しすぎていて好きではなかった。さまざまな主張があったが、私にとっては真実として響かなかった」と述べたことがある。
1980年代に人気にかげった時期、レッシング氏は出版における知名度の重要度を試してみたいと思い、別名で小説を投稿したところ、まったく相手にされなかった。この小説は後に、作者が彼女であることが明らかにされた後、出版された。
徐々にアフリカに関する積極的な発言も増え、特にアフリカ諸国の政府の腐敗や横領を辛らつに批判してきた。南アフリカはアパルトヘイト撤廃後の1995年まで再訪することはできなかった。
小さなテロリスト集団に加わった若い女性を描いた85年の作品『The Good Terrorist(善きテロリスト)』には、現在も強い反響がある。
近年は英国ロンドン郊外のハムステッド(Hampstead)に住み、サイエンス・フィクションも手掛けていた。
また、インターネットの会員制サイト「MySpace」では、およそ最高齢の利用者のひとりとして自分のページを開設している。最近では「女性、87歳」と掲げた下に、「ドリス・レッシングには136人の友人がいる」と書いている。
同アカデミーはレッシング氏について「女性性の経験を描く抒情詩人。懐疑的視点と情熱、深い洞察力をもって、分断された文明を厳しく見つめた」と評した。
1919年10月22日生まれで、次週88歳を迎えるレッシング氏は、1901年創設のノーベル文学賞受賞者として史上最高齢。同賞では女性作家として11人目の受賞となる。また、ノーベル賞全体を合わせても史上2番目に高齢の受賞だ。
11日、受賞が発表された瞬間、レッシング氏は買い物に出かけていた。談話を求めたAFP記者に、同氏の代理人Jonathan Clowes氏は「業績が高く評価されて光栄だ。われわれは心から喜んでいるが、本人は買い物に行っていてまだ知らない。彼女がニュースで知ってしまう前にどうにか連絡を取ろうとしているところだ」と語った。受賞を伝えた後、レッシング氏から談話を発表してもらいたいと述べた。
レッシング氏の扱うテーマは幅広い。最も著名な1962年の作品『黄金のノート(The Golden Notebook)』で、レッシング氏はフェミニスト作家とみなされるようになったが、常にこうした「レッテル貼り」を拒絶し、自分の作品が直接的に政治的役割を演ずることはないと語ってきた。
■レッシング氏経歴
レッシング氏は1919年に現在のイランのKhermanshahで、ドリス・メイ・テイラーとして生まれた。1927年に両親が当時の南ローデシア(現ジンバブエ)へ移り、人格形成期をその農場で過ごした。後に「地獄のように孤独な」育ち方だったと回想している。1939年、実家から逃げ出すようにフランク・ウィズドム(Frank Wisdom)氏と結婚。1943年に離婚するまでに2人の子どもをもうけた。
2人目の夫はドイツ人の政治活動家ゴットフリード・レッシング(Gottfried Lessing)氏だったが、1949年にまだ幼い息子と1作目『草は歌っている(The Grass Is Singing)』の草稿を手に英国へ渡り、同氏とも離婚した。人種的抑圧と植民地主義を焼け付くような鋭さでつぶさに描いた同作は翌年出版され、大きな成功を収めた。
ラジカルな政治傾向を有していたレッシング氏は英国共産党に入党するが、ハンガリー動乱の1956年に離党し、以降決別している。
1952年から69年の間に、マーサ・クエストと名付けた主役をめぐる5部作『暴力の子供たち(Children of Violence)』を出版し、作家とフェミニストという2つの評価を確立した。この評価について、レッシング氏はかたくなに否定し続け、「私は60年代もそれ以降も、活発なフェミニストではなかった。(フェミニスト運動は)イデオロギーに依拠しすぎていて好きではなかった。さまざまな主張があったが、私にとっては真実として響かなかった」と述べたことがある。
1980年代に人気にかげった時期、レッシング氏は出版における知名度の重要度を試してみたいと思い、別名で小説を投稿したところ、まったく相手にされなかった。この小説は後に、作者が彼女であることが明らかにされた後、出版された。
徐々にアフリカに関する積極的な発言も増え、特にアフリカ諸国の政府の腐敗や横領を辛らつに批判してきた。南アフリカはアパルトヘイト撤廃後の1995年まで再訪することはできなかった。
小さなテロリスト集団に加わった若い女性を描いた85年の作品『The Good Terrorist(善きテロリスト)』には、現在も強い反響がある。
近年は英国ロンドン郊外のハムステッド(Hampstead)に住み、サイエンス・フィクションも手掛けていた。
また、インターネットの会員制サイト「MySpace」では、およそ最高齢の利用者のひとりとして自分のページを開設している。最近では「女性、87歳」と掲げた下に、「ドリス・レッシングには136人の友人がいる」と書いている。