40年前のアポロ月面着陸の陰に、米ソ冷戦の構図
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【7月6日 AFP】(一部更新)今から40年前の1969年7月20日、米国人宇宙飛行士ニール・アームストロング(Neil Armstrong)船長(当時38)が人類で初めて月面を歩き、文明最古の夢を実現した。
アームストロング船長が月着陸船のタラップを降り、月面に降り立つ瞬間は、全世界でテレビ・ラジオ中継され、5億人がかたずをのんで見守った。続いて、エドウィン・オルドリン(Edwin Aldrin)宇宙飛行士(当時39)も月面に降り立った。
この時、アームストロング船長が月から送った「これは1人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」という名言は、はじめの部分が「人類にとっては(for man)小さな1歩」という意味不明の言葉だった。その後、超遠距離通信だったことや通信機器の性能が原因で、「1人の人間にとって(for a man)」の「a」が脱落していたことが判明したが、歴史書には「for man」のままで残されている。
当時、米国はソ連との冷戦の最中にあり、アポロ11号(Apollo 11)による人類初の月面着陸は、宇宙開発競争における米国の圧倒的優位を見せつけるものとなった。月面に星条旗を立てた行為は象徴として、ソ連に対する米国民の優越感をおおいに鼓舞した。
米国は1969年から72年にかけて6回、月面着陸を成功させているが、人類を月に送るアポロ計画自体は初着陸の8年前、ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)大統領の提唱で61年に開始された。
アポロ計画の承認を得るため、ケネディ大統領が議会で「60年代中に人類を月に着陸させ、無事に帰還させる」決意を示した演説は有名だ。
だが、アポロ計画を提唱したケネディ大統領の真意は、なによりも政治的なものだったと、米国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museum)の学芸員ジョン・ログスドン(John Logsdon)氏はいう。
■宇宙開発競争の遅れ挽回を目指した米国
ライバルのソ連は1957年、世界初の人工衛星「スプートニク1号(Sputnik 1)」の周回軌道への打ち上げに成功。1961年にはロシア人のユーリ・ガガーリン(Yury Gagarin)宇宙飛行士が、人類初の宇宙飛行に成功している。
こうして、米ソの宇宙開発競争は次第に、対立するイデオロギーと世界の覇権を二極化して争う冷戦を象徴する場と化していく。
米国が月面着陸に成功した数か月後、1970年に入り、ソ連の物理学者で反体制運動家だったアンドレイ・サハロフ(Andrei Sakharov)氏は「米国の月計画の成功は、民主主義の優位を証明した」との公開書簡をソビエト政府に送りつけた。
実際に当時、米国は繁栄と発展の最中にあり、科学技術研究における成果を即座にアポロ計画に反映させた。
1969年のアポロ11号の打ち上げ計画に投入された費用は250億ドル。今の貨幣価値に換算すると1150億ドル(約11兆円)で、現在のNASAの予年間算の6倍を越える額だ。
■最後の月面着陸は1972年
しかし、アポロ計画には苦難の歴史もあった。1967年にはアポロ1号が、地上での訓練中に火災を起こし、宇宙飛行士3人が犠牲となった。
その後、米国は1968年に打ち上げたアポロ8号で、ようやく人類初の有人月周回飛行に成功。半年後には宇宙飛行士3人が搭乗したアポロ10号も月軌道を周回する偵察飛行を行った。
そして1969年7月16日、アームストロング船長を筆頭にオルドリン、マイケル・コリンズ(Michael Collins)飛行士の3人が乗り込んだアポロ11号が、米フロリダ(Florida)州のケネディ宇宙センター(Kennedy Space Center)から現地時間午前9時32分、サターンV型(Saturn V)ロケット(全長111メートル)で打ち上げられた。
その4日後の20日午後10時50分(米フロリダ時間)、アームストロング船長が月着陸船から出て、短いタラップを降り始めた。そして午後10時56分48秒、船長はタラップから軽くジャンプして、月面に着地した。その20分後、オルドリン飛行士も月面に降り立った。
コリンズが待機していた司令船コロンビア(Columbia)に戻るまで、2人は月面に星条旗を立てたり、平和のメッセージを刻んだ銅板を残すといったミッションを含めた活動を行い、約21時間を月面で過ごした。
24日、3人の宇宙飛行士を乗せたコロンビアが太平洋に着水。3人は無事、地球への帰還を果たした。月面で採集した21キロ分の岩石も地球に持ち帰られた。
しかし、それ以降、地球の唯一の衛星である月に降り立った人間はわずか12人。1972年を最後に、月面着陸は行われていない。(c)AFP/Jean-Louis Santini
アームストロング船長が月着陸船のタラップを降り、月面に降り立つ瞬間は、全世界でテレビ・ラジオ中継され、5億人がかたずをのんで見守った。続いて、エドウィン・オルドリン(Edwin Aldrin)宇宙飛行士(当時39)も月面に降り立った。
この時、アームストロング船長が月から送った「これは1人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」という名言は、はじめの部分が「人類にとっては(for man)小さな1歩」という意味不明の言葉だった。その後、超遠距離通信だったことや通信機器の性能が原因で、「1人の人間にとって(for a man)」の「a」が脱落していたことが判明したが、歴史書には「for man」のままで残されている。
当時、米国はソ連との冷戦の最中にあり、アポロ11号(Apollo 11)による人類初の月面着陸は、宇宙開発競争における米国の圧倒的優位を見せつけるものとなった。月面に星条旗を立てた行為は象徴として、ソ連に対する米国民の優越感をおおいに鼓舞した。
米国は1969年から72年にかけて6回、月面着陸を成功させているが、人類を月に送るアポロ計画自体は初着陸の8年前、ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)大統領の提唱で61年に開始された。
アポロ計画の承認を得るため、ケネディ大統領が議会で「60年代中に人類を月に着陸させ、無事に帰還させる」決意を示した演説は有名だ。
だが、アポロ計画を提唱したケネディ大統領の真意は、なによりも政治的なものだったと、米国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museum)の学芸員ジョン・ログスドン(John Logsdon)氏はいう。
■宇宙開発競争の遅れ挽回を目指した米国
ライバルのソ連は1957年、世界初の人工衛星「スプートニク1号(Sputnik 1)」の周回軌道への打ち上げに成功。1961年にはロシア人のユーリ・ガガーリン(Yury Gagarin)宇宙飛行士が、人類初の宇宙飛行に成功している。
こうして、米ソの宇宙開発競争は次第に、対立するイデオロギーと世界の覇権を二極化して争う冷戦を象徴する場と化していく。
米国が月面着陸に成功した数か月後、1970年に入り、ソ連の物理学者で反体制運動家だったアンドレイ・サハロフ(Andrei Sakharov)氏は「米国の月計画の成功は、民主主義の優位を証明した」との公開書簡をソビエト政府に送りつけた。
実際に当時、米国は繁栄と発展の最中にあり、科学技術研究における成果を即座にアポロ計画に反映させた。
1969年のアポロ11号の打ち上げ計画に投入された費用は250億ドル。今の貨幣価値に換算すると1150億ドル(約11兆円)で、現在のNASAの予年間算の6倍を越える額だ。
■最後の月面着陸は1972年
しかし、アポロ計画には苦難の歴史もあった。1967年にはアポロ1号が、地上での訓練中に火災を起こし、宇宙飛行士3人が犠牲となった。
その後、米国は1968年に打ち上げたアポロ8号で、ようやく人類初の有人月周回飛行に成功。半年後には宇宙飛行士3人が搭乗したアポロ10号も月軌道を周回する偵察飛行を行った。
そして1969年7月16日、アームストロング船長を筆頭にオルドリン、マイケル・コリンズ(Michael Collins)飛行士の3人が乗り込んだアポロ11号が、米フロリダ(Florida)州のケネディ宇宙センター(Kennedy Space Center)から現地時間午前9時32分、サターンV型(Saturn V)ロケット(全長111メートル)で打ち上げられた。
その4日後の20日午後10時50分(米フロリダ時間)、アームストロング船長が月着陸船から出て、短いタラップを降り始めた。そして午後10時56分48秒、船長はタラップから軽くジャンプして、月面に着地した。その20分後、オルドリン飛行士も月面に降り立った。
コリンズが待機していた司令船コロンビア(Columbia)に戻るまで、2人は月面に星条旗を立てたり、平和のメッセージを刻んだ銅板を残すといったミッションを含めた活動を行い、約21時間を月面で過ごした。
24日、3人の宇宙飛行士を乗せたコロンビアが太平洋に着水。3人は無事、地球への帰還を果たした。月面で採集した21キロ分の岩石も地球に持ち帰られた。
しかし、それ以降、地球の唯一の衛星である月に降り立った人間はわずか12人。1972年を最後に、月面着陸は行われていない。(c)AFP/Jean-Louis Santini