マドンナ離婚、多彩な顔を持つ「ポップの女王」再び独身に
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【10月16日 AFP】夫ガイ・リッチー(Guy Ritchie)との離婚を発表した歌手マドンナ(Madonna)。25年にわたるキャリアの中でポップの女王としての存在を維持しながら、さまざまな顔を見せてきたマドンナが、また独身に戻る。
ミシガン(Michigan)州の労働者階級の家庭に生まれながら世界のトップシンガーとなったマドンナは、2000年12月にスコットランドでリッチーと結婚した。2人の息子ロッコ(Rocco)くんが生まれた直後だった。
今年5月、マラウィから迎えたデビッド・バンダ(David Banda)くん(3)との養子縁組が正式に決定した。2人にはそのほか、マドンナと前夫カルロス・レオン(Carlos Leon)さんとの間に生まれた12歳になる娘ローデス(Lourdes)ちゃんもいる。
性的に倒錯した処女、敬けんなキリスト教徒、女性カウボーイ、ディスコクイーン、露出傾向の高いバイセクシャル、反戦活動家など、マドンナが生み出した際どいイメージは数え切れない。
そういった様々な顔を見せながら、マドンナの財産も膨れ上がっていった。米経済誌フォーブス(Forbes)によれば、2006年のワールドツアーで稼ぎ出した2億ドル(約200億円)という数字は、女性アーティストとしては史上最高額だという。
■マドンナの経歴
マドンナは1958年8月16日、イタリア系米国人の父親とフランス系カナダ人の血を引く母親との間に生まれたが、母親はマドンナがまだ5歳のときに、乳がんで死亡した。カトリック系の教育を受け、歌や踊りを習っていたマドンナは1977年、35ドル(約4000円)を手にニューヨーク(New York)へ向かう。その後はヌードモデル、ドーナツの販売、ダンサー、バンド活動などでかろうじて生活をつないだ。
1982年、シングル「エヴリバディ(Everybody)」でデビュー。その後、「ラッキー・スター(Lucky Star)」、「ボーダーライン(Borderline)」、「ホリデイ(Holiday)」などを次々と発表した。
1985年のアルバム『ライク・ア・ヴァージン(Like A Virgin)』で世界の注目を浴び、翌年にはその中からシングルカット曲「マテリアル・ガール(Material Girl)」をリリースした。1989年にリリースしたシングル「ライク・ア・プレイヤー(Like a Prayer)」も大ヒットを記録するが、マドンナはこの頃、女優活動もスタートさせる。歌のようにヒットはしなかったが、『マドンナのスーザンを探して(Desperately Seeking Susan)』や『フーズ・ザット・ガール(Who's That Girl?)』に出演している。
1990年のツアー「ブロンド・アンビション(Blond Ambition)」では、衣装として三角錐のブラを着用し、大きな話題となった。しかし、2003年にはロンドンの子どもたちを描いた児童書『イングリッシュローズィズ(The English Roses)』を発表、ニューヨーク・タイムズ(New York Times)紙のベストセラーで1位を獲得している。
私生活も波瀾万丈だった。最初の結婚相手は俳優ショーン・ペン(Sean Penn)。1986年に結婚するが、4年後には離婚した。1990年の映画『ディック・トレイシー(Dick Tracy)』で共演したウォーレン・ベイティ(Warren Beatty)とも交際をうわさされたことがあった。
映画監督のリッチーと結婚後は、ロンドン(London)に1400万ドル(約14億円)の邸宅を含む5軒の家を買い、英国を拠点にしてきた。
数々の賞を獲得した1998年のアルバム『レイ・オブ・ライト(Ray of Light)』に見られるように、90年代後半にマドンナの音楽の方向性は新しいダンス音楽へと向かっていった。
ときを同じくして、マドンナはセックスシンボルというイメージから脱却するかのように、ユダヤ教の神秘主義思想カバラ(Kabbalah)を信奉するようになる。
しかし挑発的な一面は消えていない。2003年、音楽専門チャンネルMTVの授賞セレモニーの壇上で、ブリトニー・スピアーズ(Britney Spears)との長いキスを披露している。
8月に50歳を迎えたマドンナは、ワーナーミュージック(Warner Music)から出す最後のアルバムとなった『ハード・キャンディ(Hard Candy)』をひっさげ、現在、ワールドツアー「スティッキー&スウィート(Sticky and Sweet)」を行っている。(c)AFP
ミシガン(Michigan)州の労働者階級の家庭に生まれながら世界のトップシンガーとなったマドンナは、2000年12月にスコットランドでリッチーと結婚した。2人の息子ロッコ(Rocco)くんが生まれた直後だった。
今年5月、マラウィから迎えたデビッド・バンダ(David Banda)くん(3)との養子縁組が正式に決定した。2人にはそのほか、マドンナと前夫カルロス・レオン(Carlos Leon)さんとの間に生まれた12歳になる娘ローデス(Lourdes)ちゃんもいる。
性的に倒錯した処女、敬けんなキリスト教徒、女性カウボーイ、ディスコクイーン、露出傾向の高いバイセクシャル、反戦活動家など、マドンナが生み出した際どいイメージは数え切れない。
そういった様々な顔を見せながら、マドンナの財産も膨れ上がっていった。米経済誌フォーブス(Forbes)によれば、2006年のワールドツアーで稼ぎ出した2億ドル(約200億円)という数字は、女性アーティストとしては史上最高額だという。
■マドンナの経歴
マドンナは1958年8月16日、イタリア系米国人の父親とフランス系カナダ人の血を引く母親との間に生まれたが、母親はマドンナがまだ5歳のときに、乳がんで死亡した。カトリック系の教育を受け、歌や踊りを習っていたマドンナは1977年、35ドル(約4000円)を手にニューヨーク(New York)へ向かう。その後はヌードモデル、ドーナツの販売、ダンサー、バンド活動などでかろうじて生活をつないだ。
1982年、シングル「エヴリバディ(Everybody)」でデビュー。その後、「ラッキー・スター(Lucky Star)」、「ボーダーライン(Borderline)」、「ホリデイ(Holiday)」などを次々と発表した。
1985年のアルバム『ライク・ア・ヴァージン(Like A Virgin)』で世界の注目を浴び、翌年にはその中からシングルカット曲「マテリアル・ガール(Material Girl)」をリリースした。1989年にリリースしたシングル「ライク・ア・プレイヤー(Like a Prayer)」も大ヒットを記録するが、マドンナはこの頃、女優活動もスタートさせる。歌のようにヒットはしなかったが、『マドンナのスーザンを探して(Desperately Seeking Susan)』や『フーズ・ザット・ガール(Who's That Girl?)』に出演している。
1990年のツアー「ブロンド・アンビション(Blond Ambition)」では、衣装として三角錐のブラを着用し、大きな話題となった。しかし、2003年にはロンドンの子どもたちを描いた児童書『イングリッシュローズィズ(The English Roses)』を発表、ニューヨーク・タイムズ(New York Times)紙のベストセラーで1位を獲得している。
私生活も波瀾万丈だった。最初の結婚相手は俳優ショーン・ペン(Sean Penn)。1986年に結婚するが、4年後には離婚した。1990年の映画『ディック・トレイシー(Dick Tracy)』で共演したウォーレン・ベイティ(Warren Beatty)とも交際をうわさされたことがあった。
映画監督のリッチーと結婚後は、ロンドン(London)に1400万ドル(約14億円)の邸宅を含む5軒の家を買い、英国を拠点にしてきた。
数々の賞を獲得した1998年のアルバム『レイ・オブ・ライト(Ray of Light)』に見られるように、90年代後半にマドンナの音楽の方向性は新しいダンス音楽へと向かっていった。
ときを同じくして、マドンナはセックスシンボルというイメージから脱却するかのように、ユダヤ教の神秘主義思想カバラ(Kabbalah)を信奉するようになる。
しかし挑発的な一面は消えていない。2003年、音楽専門チャンネルMTVの授賞セレモニーの壇上で、ブリトニー・スピアーズ(Britney Spears)との長いキスを披露している。
8月に50歳を迎えたマドンナは、ワーナーミュージック(Warner Music)から出す最後のアルバムとなった『ハード・キャンディ(Hard Candy)』をひっさげ、現在、ワールドツアー「スティッキー&スウィート(Sticky and Sweet)」を行っている。(c)AFP