ジャズピアノの巨匠、オスカー・ピーターソン氏死去
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【12月25日 AFP】(一部更新)世界的なジャズ・ピアニストで作曲家のオスカー・ピーターソン(Oscar Peterson)氏が23日、腎不全のためトロント(Toronto)近郊ミシサーガ(Mississauga)の自宅で死亡した。82歳。カナダ放送協会(CBC)とラジオ・カナダ局(Radio-Canada)が24日、報じた。
20世紀音楽界で最も偉大な巨匠の1人だった。約60年におよぶ演奏生活で数多くの巨匠と共演。チャーリー・パーカー(Charlie Parker)、エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)、ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)、デューク・エリントン(Duke Ellington)、カウント・ベイシー(Count Basie)、ナット・キング・コール(Nat King Cole)、スタン・ゲッツ(Stan Getz)など、そうそうたる名前が並ぶ。
ブギウギからストライド、ビバップに至るまで、ピアノ演奏スタイルは多岐にわたり、生涯でレコーディングしたアルバムは200枚近く。その中で最も有名なものは、1964年の『カナダ組曲(Canadiana Suite)』だろう。収録された8曲すべてが、故郷への思いから作られたものだ。グラミー賞を個人で7回受賞、1997年には生涯功労賞も授与された。
即興の天才でもあるピーターソン氏は2005年、観客の前で自由なスタイルでジャズを演奏するときの情熱が「素晴らしい美の瞬間」を与えてくれると語っていた。
ピーターソン氏は晩年、関節炎や健康状態の悪化と闘っていた。1993年にはニューヨーク(New York)のブルーノート(Blue Note)での公演中に脳溢血で倒れ、左手が不自由になったが、その後もレコーディングを続けた。ジャズ番組の司会などを務めたロス・ポーター(Ross Porter)氏は、右手だけでもピーターソン氏は「他の誰よりもはるか先を進んでいた」と語った。
「わたしの考え方には、年齢はそんなに影響しないと思う。楽器や仲間に対する愛情がわたしを若返らせてくれる」と、ピーターソン氏は2001年のインタビューで語っている。
ピーターソン氏は1925年8月、西インド諸島出身の鉄道の荷物運搬人の息子としてモントリオール(Montreal)に生まれた。父親も才能のあるアマチュアのピアニストだった。7歳のとき、結核を患うが完治。幼少時からハンガリー人ピアニストPaul de Marky氏の指導を受け、「技術と素早い指の動き」を学ぶ。14歳でCBCラジオのコンテストで優勝し、学校を中退。毎週ジャズ番組に出演し、その後、ホテルやミュージックホールで演奏するようになる。
人種差別の時代を生き、米、カナダ両国で公民権運動にも参加。1943年にはモントリオールでオーケストラと演奏した黒人初の音楽家になった。
そして1949年、マネージャーになったノーマン・グランツ(Norman Granz)氏の努力で、米ニューヨークのカーネギーホール(Carnegie Hall)で初演奏し、国際デビューを果たす。1951年には初のバンドを結成。その後、レイ・ブラウン(Ray Brown)とハーブ・エリス(Herb Ellis)と組んだトリオは、ファンの間で「世界最高のジャズグループだ」と称されている。エリスは、ピーターソンについて「いつでも一目見れば、偉大な才能の持ち主だと分かった」と語った。
その後、フィッツジェラルドらとともに、定期的に欧州でのツアーを行った。1996年に死亡したフィッツジェラルドは生前、ピーターソンのピアノ演奏は「すぐに歌いたいと思わせてくれるものだった」と語っている。
私生活に関しては4度の結婚で、6人の子どもがいる。
ジャズミュージシャンのオリバー・ジョーンズ(Oliver Jones)氏は、長年の友人の死を「極めて大きな損失」だとしたが、「家族に囲まれ、自宅で自分の願ったように死を迎えられたことについては良かったと思う」と語った。さらにピーターソン氏の友人でもあるHazel McCallionミシサーガ市長は、「世界は最も偉大なジャズミュージシャンを無くしてしてしまった」と嘆いた。自由党(Liberal Party)のステファン・ディオン(Stephane Dion)党首は、「オスカー・ピーターソンの素晴らしい音楽の才能を彼とともに堪能したファンの悲しみを感じる」とコメントした。(c)AFP
20世紀音楽界で最も偉大な巨匠の1人だった。約60年におよぶ演奏生活で数多くの巨匠と共演。チャーリー・パーカー(Charlie Parker)、エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)、ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)、デューク・エリントン(Duke Ellington)、カウント・ベイシー(Count Basie)、ナット・キング・コール(Nat King Cole)、スタン・ゲッツ(Stan Getz)など、そうそうたる名前が並ぶ。
ブギウギからストライド、ビバップに至るまで、ピアノ演奏スタイルは多岐にわたり、生涯でレコーディングしたアルバムは200枚近く。その中で最も有名なものは、1964年の『カナダ組曲(Canadiana Suite)』だろう。収録された8曲すべてが、故郷への思いから作られたものだ。グラミー賞を個人で7回受賞、1997年には生涯功労賞も授与された。
即興の天才でもあるピーターソン氏は2005年、観客の前で自由なスタイルでジャズを演奏するときの情熱が「素晴らしい美の瞬間」を与えてくれると語っていた。
ピーターソン氏は晩年、関節炎や健康状態の悪化と闘っていた。1993年にはニューヨーク(New York)のブルーノート(Blue Note)での公演中に脳溢血で倒れ、左手が不自由になったが、その後もレコーディングを続けた。ジャズ番組の司会などを務めたロス・ポーター(Ross Porter)氏は、右手だけでもピーターソン氏は「他の誰よりもはるか先を進んでいた」と語った。
「わたしの考え方には、年齢はそんなに影響しないと思う。楽器や仲間に対する愛情がわたしを若返らせてくれる」と、ピーターソン氏は2001年のインタビューで語っている。
ピーターソン氏は1925年8月、西インド諸島出身の鉄道の荷物運搬人の息子としてモントリオール(Montreal)に生まれた。父親も才能のあるアマチュアのピアニストだった。7歳のとき、結核を患うが完治。幼少時からハンガリー人ピアニストPaul de Marky氏の指導を受け、「技術と素早い指の動き」を学ぶ。14歳でCBCラジオのコンテストで優勝し、学校を中退。毎週ジャズ番組に出演し、その後、ホテルやミュージックホールで演奏するようになる。
人種差別の時代を生き、米、カナダ両国で公民権運動にも参加。1943年にはモントリオールでオーケストラと演奏した黒人初の音楽家になった。
そして1949年、マネージャーになったノーマン・グランツ(Norman Granz)氏の努力で、米ニューヨークのカーネギーホール(Carnegie Hall)で初演奏し、国際デビューを果たす。1951年には初のバンドを結成。その後、レイ・ブラウン(Ray Brown)とハーブ・エリス(Herb Ellis)と組んだトリオは、ファンの間で「世界最高のジャズグループだ」と称されている。エリスは、ピーターソンについて「いつでも一目見れば、偉大な才能の持ち主だと分かった」と語った。
その後、フィッツジェラルドらとともに、定期的に欧州でのツアーを行った。1996年に死亡したフィッツジェラルドは生前、ピーターソンのピアノ演奏は「すぐに歌いたいと思わせてくれるものだった」と語っている。
私生活に関しては4度の結婚で、6人の子どもがいる。
ジャズミュージシャンのオリバー・ジョーンズ(Oliver Jones)氏は、長年の友人の死を「極めて大きな損失」だとしたが、「家族に囲まれ、自宅で自分の願ったように死を迎えられたことについては良かったと思う」と語った。さらにピーターソン氏の友人でもあるHazel McCallionミシサーガ市長は、「世界は最も偉大なジャズミュージシャンを無くしてしてしまった」と嘆いた。自由党(Liberal Party)のステファン・ディオン(Stephane Dion)党首は、「オスカー・ピーターソンの素晴らしい音楽の才能を彼とともに堪能したファンの悲しみを感じる」とコメントした。(c)AFP