アカデミー主演男優賞を獲得した、ダニエル・デイ・ルイスとは?
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【2月25日 AFP】第80回アカデミー賞(80th Academy Awards)の主演男優賞を受賞したダニエル・デイ・ルイス(Daniel Day-Lewis、50)に、同世代の最も素晴らしい俳優のひとりという評価をもたらしたものは、量ではなく質だった。
デイ・ルイスは演じる役を厳選し、その役を熱心に研究することで知られている。1989年に『マイ・レフトフット(My Left Foot)』で同賞を受賞し、国際的な評価を得てから20年近くが経つが、この間に出演した映画はわずか8本。しかし、そのすべての作品で、伝説と語り継がれるほどの演技を見せている。
撮影が行われている期間は、カメラが回っていなくても、24時間、その役から離れることのないデイ・ルイス。日常生活もその役の人物として生きるという。『マイ・レフトフット』では、車いすの生活を送る主人公を演じたが、撮影中は常に車いすに座ったまま立とうとはせず、撮影スタッフを驚かせた。ケーブルや照明の邪魔にならないように、スタッフに車いすごと動かされていたほどだ。
■独特の役作り
1992年の『ラスト・オブ・モヒカン(Last of the Mohicans)』では、役になりきれるよう、その土地に生きることを学び、自身を磨いた。マーティン・スコセッシ(Martin Scorsese)監督の『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事(The Age of Innocence)』では、役をつかむために、1870年代の衣服を身につけ、ニューヨーク(New York)の街を数週間さまよい歩いたという。
さらに翌年に出演した『父の祈りを(In The Name of the Father)』では、IRAの爆破事件の犯人に間違われてしまうアイルランド人を演じるため、数キロの減量を行った。撮影中、デイ・ルイスは罵声を浴びせ、冷たい水をかけるようにスタッフに頼んだという。
インタビューに応じることもなく、メディアにもあまり登場しないデイ・ルイスは、自身の撮影方法について語ろうとはしない。最近のインタビューでは、こう語っていた。
「私のやり方について完全に誤解されていると感じたことが何度もあったので、それについて話しても意味がないのではなないかと思うことさえある。この病院に行ったとか、あの刑務所に行ったとか、私が役作りをしたときの詳細に興味がもたれているようだ。しかし、わたしにとってこの作業はとても重要で、これが作品を見る人を魅了し、好奇心を刺激するのだと思う。もっとも重要な役作りは想像力のなかにある」
そして1996年、デイ・ルイスは、アーサー・ミラー(Arthur Miller)の同名小説(邦題:『るつぼ』)を映画化した1996年の『クルーシブル(The Crucible)』で、ミラーの娘である女優のレベッカ・ミラー(Rebecca Miller)と出会い、結婚する。
■「絶対に話さないと決めた事もある」
1997年には、『ボクサー(The Boxer)』に出演するが、その後5年間、スクリーンから離れていたため、この休養について様々な憶測が飛び交った。イタリアである靴職人に演技を教える代わりに、靴の作り方を習っていたのではないかという話が最も広く報じられた。真相はわからないが、デイ・ルイスはこの時期について語ることをひたすら避けてきた。一度、この期間について質問されたとき、こう答えている。「いろんな事だ。絶対に話さないと決めた事もある」
5年間のブランクを経て2002年、スコセッシ監督の『ギャング・オブ・ニューヨーク(Gangs of New York)』でビル・ザ・ブッチャーを演じ、スクリーンに戻ってきた。この作品で、アカデミー賞に3度目のノミネートも果たした。さらに2005年に妻のレベッカが監督を務めた『The Ballad of Jack and Rose』にも出演。そして今回オスカーを獲得した『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(There Will Be Blood)』へと続く。
デイ・ルイスは1957年、英国の詩人セシル・デイ・ルイス(Cecil Day-Lewis)と映画制作者のマイケル・バルコン(Michael Balcon)を父にもつ女優ジル・バルコン(Jill Balcon)との間に生まれた。13歳のとき、映画デビューとなる『日曜日は別れの時(Sunday, Bloody Sunday)』への出演のため、学校を退学。その後オールド・ヴィク演劇学校(Bristol Old Vic)で演技を学び、王立シェイクスピア劇団(Royal Shakespeare Company)へ入団する。
1982年に『ガンジー(Gandhi)』でスクリーンに復帰するが、その名を知られるようになったのは、それから3年後に『マイ・ビューティフル・ランドレット(My Beautiful Laundrette)』や『眺めのいい部屋(A Room with a View)』に出演してからだ。
低予算映画だった『マイ・ビューティフル・ランドレット』では、サッチャー(Margaret Thatcher)政権時代のロンドン(London)南部でパキスタン人の恋人とコインランドリーのビジネスを始める同性愛者を演じた。『眺めのいい部屋』では、20世紀初頭の英国に生きる良家の青年を演じた。
そして1987年、ミラン・クンデラ(Milan Kundera)の小説を映画化したフィリップ・カウフマン(Philip Kaufman)監督の『存在の耐えられない軽さ(The Unbearable Lightness of Being)』で初主演を迎えることになる。(c)AFP/Tangi Quemener
デイ・ルイスは演じる役を厳選し、その役を熱心に研究することで知られている。1989年に『マイ・レフトフット(My Left Foot)』で同賞を受賞し、国際的な評価を得てから20年近くが経つが、この間に出演した映画はわずか8本。しかし、そのすべての作品で、伝説と語り継がれるほどの演技を見せている。
撮影が行われている期間は、カメラが回っていなくても、24時間、その役から離れることのないデイ・ルイス。日常生活もその役の人物として生きるという。『マイ・レフトフット』では、車いすの生活を送る主人公を演じたが、撮影中は常に車いすに座ったまま立とうとはせず、撮影スタッフを驚かせた。ケーブルや照明の邪魔にならないように、スタッフに車いすごと動かされていたほどだ。
■独特の役作り
1992年の『ラスト・オブ・モヒカン(Last of the Mohicans)』では、役になりきれるよう、その土地に生きることを学び、自身を磨いた。マーティン・スコセッシ(Martin Scorsese)監督の『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事(The Age of Innocence)』では、役をつかむために、1870年代の衣服を身につけ、ニューヨーク(New York)の街を数週間さまよい歩いたという。
さらに翌年に出演した『父の祈りを(In The Name of the Father)』では、IRAの爆破事件の犯人に間違われてしまうアイルランド人を演じるため、数キロの減量を行った。撮影中、デイ・ルイスは罵声を浴びせ、冷たい水をかけるようにスタッフに頼んだという。
インタビューに応じることもなく、メディアにもあまり登場しないデイ・ルイスは、自身の撮影方法について語ろうとはしない。最近のインタビューでは、こう語っていた。
「私のやり方について完全に誤解されていると感じたことが何度もあったので、それについて話しても意味がないのではなないかと思うことさえある。この病院に行ったとか、あの刑務所に行ったとか、私が役作りをしたときの詳細に興味がもたれているようだ。しかし、わたしにとってこの作業はとても重要で、これが作品を見る人を魅了し、好奇心を刺激するのだと思う。もっとも重要な役作りは想像力のなかにある」
そして1996年、デイ・ルイスは、アーサー・ミラー(Arthur Miller)の同名小説(邦題:『るつぼ』)を映画化した1996年の『クルーシブル(The Crucible)』で、ミラーの娘である女優のレベッカ・ミラー(Rebecca Miller)と出会い、結婚する。
■「絶対に話さないと決めた事もある」
1997年には、『ボクサー(The Boxer)』に出演するが、その後5年間、スクリーンから離れていたため、この休養について様々な憶測が飛び交った。イタリアである靴職人に演技を教える代わりに、靴の作り方を習っていたのではないかという話が最も広く報じられた。真相はわからないが、デイ・ルイスはこの時期について語ることをひたすら避けてきた。一度、この期間について質問されたとき、こう答えている。「いろんな事だ。絶対に話さないと決めた事もある」
5年間のブランクを経て2002年、スコセッシ監督の『ギャング・オブ・ニューヨーク(Gangs of New York)』でビル・ザ・ブッチャーを演じ、スクリーンに戻ってきた。この作品で、アカデミー賞に3度目のノミネートも果たした。さらに2005年に妻のレベッカが監督を務めた『The Ballad of Jack and Rose』にも出演。そして今回オスカーを獲得した『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(There Will Be Blood)』へと続く。
デイ・ルイスは1957年、英国の詩人セシル・デイ・ルイス(Cecil Day-Lewis)と映画制作者のマイケル・バルコン(Michael Balcon)を父にもつ女優ジル・バルコン(Jill Balcon)との間に生まれた。13歳のとき、映画デビューとなる『日曜日は別れの時(Sunday, Bloody Sunday)』への出演のため、学校を退学。その後オールド・ヴィク演劇学校(Bristol Old Vic)で演技を学び、王立シェイクスピア劇団(Royal Shakespeare Company)へ入団する。
1982年に『ガンジー(Gandhi)』でスクリーンに復帰するが、その名を知られるようになったのは、それから3年後に『マイ・ビューティフル・ランドレット(My Beautiful Laundrette)』や『眺めのいい部屋(A Room with a View)』に出演してからだ。
低予算映画だった『マイ・ビューティフル・ランドレット』では、サッチャー(Margaret Thatcher)政権時代のロンドン(London)南部でパキスタン人の恋人とコインランドリーのビジネスを始める同性愛者を演じた。『眺めのいい部屋』では、20世紀初頭の英国に生きる良家の青年を演じた。
そして1987年、ミラン・クンデラ(Milan Kundera)の小説を映画化したフィリップ・カウフマン(Philip Kaufman)監督の『存在の耐えられない軽さ(The Unbearable Lightness of Being)』で初主演を迎えることになる。(c)AFP/Tangi Quemener