【6月2日 AFP】(一部更新、写真追加)20世紀の仏ファッション界の巨匠イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)氏が1日の午後11時10分、パリ(Paris)市内で死亡した。71歳だった。Pierre-Berge-Saint Laurent Foundation(ピエール・ベルジェ・イヴ・サンローラン財団)が同日、明らかにした。

 クリスチャン・ディオール(Christian Dior)、ココ・シャネル(Coco Chanel)、ポール・ポワレ(Paul Poiret)らとともに、20世紀のファッション界をリードした。トップデザイナーとして40年にわたり活躍していたが、2002年に引退したあとは長年、闘病生活を送っていた。

 サンローラン氏は1936年8月1日、当時仏領だったアルジェリアの沿岸都市オラン(Oran)で誕生した。孤独で内気だったサンローラン少年はやがて服飾デザインに目覚める。1953年、17歳のとき、スケッチブックにしたためたデザインを携えてパリに上京。これがヴォーグ(Vogue)誌の編集者だったミッシェル・デブリュノフ(Michel de Brunoff)の目に留まる。さらに翌年、パリで行われた4つのデザインコンテストのうち、サンローラン氏が3つで優勝。残る1つは、カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)が優勝した。

 若き青年の才能を見出したデブリュノフ氏は、ディオール氏にサンローラン氏を紹介する。ディオール氏の後継者として瞬く間に頭角を現したサンローラン氏は3年後、ディオールの死去にともない、若干21歳にして同ブランドの主任デザイナーになった。サンローラン氏は後年、ディオール氏について「私はディオールに魅了された。彼の前では話すことができなかった。彼は私のアートの基礎を教えてくれた。これから何が起ころうと、彼とともに過ごした日々は忘れない」と語っている。

 しかし1960年、同年代の多くのフランス人とともに、アルジェリアの独立戦争のために徴兵された。3週間も経たないうちに健康面から従軍を免れるが、ディオールの後継者にはマルク・ボアン(Marc Bohan)が選ばれた。

 サンローラン氏はこのとき、当時ディオールで働き、後のビジネスパートナーとなるピエール・ベルジェ(Pierre Berge)氏とともに独立。変化しつつある世界が新しい個性を求めていた1960年代初頭に、自分のブランドを立ち上げた。女性が経済的な自由を享受し始めた当時、好景気に支えられた若者向け市場や、ポップカルチャーの隆盛を機に波に乗ったのだ。「パンタロン」や「サファリルック」、「モンドリアン・ルック」など、彼が生み出すデザインは常に話題の的となった。

 サンローラン氏の名前と「YSL」のロゴは、最新トレンドと同意語になった。プレタポルテライン「イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ(Yves Saint Laurent Rive Gauche)」が誕生し、装飾品や香水も次々とライセンス契約が結ばれた。

 1960-70年代は、日本に続き、韓国や台湾の市場にも参入。世界のファッション界をリードした。

 サンローラン氏のよき理解者のひとりである女優カトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve)は、ショーには必ず出席していた。ドヌーブはサンローラン氏のデザインについて「彼は女性に二つの人生を与えてくれた。彼の服は、昼には知らない顔だらけの世界と対峙する支えとなってくれる。そして、友人達とすごす夜に魅力を演出してくれるの」

 しかしサンローラン氏のキャリアが常に順風満帆だったわけではない。1971年、第二次世界大戦中のパリのスタイルをモデルにしたコレクションは米国から非難を浴び、1970年代に「Opium(アヘン)」という香水を発表したときには、薬物使用を容認しているという批判を受けた。

 1999年、グッチ グループにブランドを売却。2002年1月22日にパリで発表したオートクチュール・コレクションを最後にデザイナーを引退した。引退にともない、イヴ・サンローランのオートクチュール部門は閉鎖。後年には、長く病気で療養していた。(c)AFP