【6月11日 AFP】軽トラックの荷台にオートバイを積み、50年前に米国市場に進出したホンダ(Honda)は、いまや米国で最も人気があり、高く評価される自動車メーカーのひとつになった。

「ホンダがこの50年間、成長し、専念してきた細心の戦略は驚異に値する」と米民間調査会社、JD・パワー・アンド・アソシエイツ(J.D. Power and Associates)自動車業界分析の担当取締役、ジェフ・シュスター(Jeff Schuster)氏は称賛する。

■初の海外支店、米国法人は1959年発足

 オートバイ・メーカーとして発足したホンダ初の海外進出先は米国。現地法人の設立は、同社創立11年後の1959年6月11日だった。その後1968年までにホンダは約100万台のバイクを売り上げ、米国一のバイク販売を誇るようになった。

 バイクに続き、米自動車市場に参入したのは1970年。本土に輸出する前にハワイ(Hawai)州で小型セダンの販売から開始した。当初の販売台数は振るわなかったものの、高燃費エンジンと低価格で、73年には石油ショックを乗り切る強みを見せた。

 アジア自動車メーカー初の米国内の生産拠点は、オハイオ(Ohio)州。同工場のバイク組み立てラインは79年9月10日に稼動を開始、自動車は82年11月1日から生産が始まった。

 オハイオ工場の設置は米労働史上に残る景気後退のさなかで、品質管理が維持できるか疑問視もされたが、88年には米国で組み立てたセダン「アコード(Accord)」の日本への逆輸入が開始され、懸念に根拠がなかったことを証明した。その1年後からアコードは3年連続、外国ブランドでは米国内で最多の売上を誇った。

■高い技術性と、時流に飲まれない堅実さ

 ホンダの「強力なエンジニアリング文化」が同社の成功の立役者だと、米自動車情報サイトEdmunds.comのジェレミー・アンウィル(Jeremy Anwyl)社長は認める。「燃費基準や排ガス規制の導入初期に、ホンダ車はほかのメーカーの車が苦肉の策とした洗練度の低い方法を採用することなく、燃費基準や排ガス基準を満たすことができた」

 1990年代に大型トラックやスポーツ用多目的車(SUV)がもてはやされた時期には、ホンダは時流をとらえていないと批判もされたが、自社の主力製品にこだわる姿勢と、小型車とクロスオーバーさせたSUVの開発は、その後の石油価格の最高騰をあたかも予知したようだった。

 08年秋、自動車販売台数が激減した際も、効率重視の姿勢があったから敏速な生産調整が可能だったと、米現地法人のジョン・メンデル(John Mendel)上級副社長は振り返る。「ホンダは困難な時期に本当に強い。消費者は危険を冒さない。ホンダの車ならば何も問題が起きないだろうと彼らは思っている。耐久性もあり、残余価値も高いと知っている」

 米調査会社オートデータ(Autodata)によると、2008年の米国市場における実績で、ホンダは販売台数では前年比8%減の160万台だったものの、市場シェアは前年の9.6%から10.8%に拡大した。現在では破たんしたクライスラー(Chrysler)に取って代わり、米市場4位に上昇しつつあり、フォード(Ford)から2位を奪い取らんとするトヨタ(Toyota)と並び、日本車勢として健闘する。 
 
 現在、ホンダの米国内の工場は10拠点、研究開発施設が14か所、2万8000人の従業員を抱えている。さらに2か所で新工場を建設中だ。(c)AFP/Mira Oberman