【3月29日 AFP】ガンナ・コンスタンティノーバさん(77)が住む場所は1986年、世界史上最悪の原子力災害が発生したチェルノブイリ(Chernobyl)原子力発電所から18キロしか離れていない。

 ソ連崩壊後、ウクライナ領となったチェルノブイリ原発周辺は「立ち入り禁止区域」に指定されている。しかし、ここには今も高齢者を中心にウクライナ人数百人が住んでいる。彼らは辛うじて生計を立てながらも「死のゾーン」という異名を挽回するかのように、驚くほど牧歌的な暮らしを送っている。

 オレンジ色のスカーフを頭に巻いたコンスタンティノーバさんは、裏庭で育てた野菜を手に「チェルノブイリで十分よく暮らしているわ」と語る。「空気はきれいだし、川も近い。なにもかもが本来あるべき姿で存在してるわよ」

 訪問者たちにとって、コンスタンティノーバさんの言葉は驚きだ。原発周辺30キロ圏内の立ち入り禁止地区、いわゆる「ゾーン」への訪問者は、圏内ではいかなる植物や施設にも触れず、たばこを吸ったり、屋外で飲食したりしないよう誓約書を書かされるのだ。

■「ゾーン」に住み続ける人たち

 その史上最悪の原子力災害からあと1か月で25年目という時、東北地方太平洋沖地震で打撃を受けた福島の原子力発電所の危機に直面し、世界の目は再びチェルノブイリに注がれた。

 チェルノブイリ周辺の汚染地区に居住してはならないという当局の禁止令に反して、立ち入り禁止区域内には高齢のウクライナ人約270人が住んでいる。当局はとうの昔に、この禁止令を徹底させる努力を止めている。コンスタンティノーバさんや住民たちは、核による破滅と隣り合わせかもしれないが、比較的「普通の暮らし」であることを誇ってもいる。日本から「死の灰」が届くかもしれないという懸念が強まっても、彼女たちの心は揺るがない。

 1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所の4号炉が爆発し、致命的な放射性物質が広範囲にまき散らされた時、当時のソ連政府は半径30キロ圏内の住民13万人全員を避難させた。

 しかし、住民が自宅へ戻るのを止めることはできなかった。コンスタンティノーバさんは事故から1月もしないうちに小さな木造のわが家へ戻り、以来そこから動いたことはない。「草の香りもいいし、夏にはいろんな植物が真っ盛りになるのよ。森で採れるもの、キノコやベリー類、何でも食べてるわ。放射能は感じません。トマトやキュウリ、ジャガイモも育ててます。何でも食べるし、何も心配してません」とコンスタンティノーバさん。「避難した人の多くは死んでしまったけど、私は今も生きてるわ」

 事故から25年になるのを前にチェルノブイリの街は、建物を化粧し、記念式典に合わせてオープンする公園や博物館の建設を急ピッチで進めている。

■「何でも食べています、キノコもね」

「ゾーン」にいる全員が決意の固い高齢者というわけではない。

 この地区内に勤務するウクライナ人7500人はシフト制で働き、彼らの給与は首都キエフ(Kiev)の平均の約2倍と言われている。そのうち約3500人がチェルノブイリ原発に雇われており、残りの半数は消防関係者、森林労働者、科学者、ゾーン内の他の事業に関わる建設労働者などである。

 オレグ(Oleg)さん(30)はチェルノブイリにある国営企業で5年間働いてきたが、勤務シフトは特殊だ。「ゾーン」内で15日間働いたら、次の15日間は「ゾーン」外にある自宅で在宅勤務する。「安全面での注意は、徒歩で行ってはならない場所には徒歩で行かない、というだけ。もっとも、時々はそんな場所を歩くこともあるけどね。食べるものは何でも食べてるよ。魚や、時にはキノコだってね」。「ゾーン」内で暮らすために必要な「秘訣」は、「釣りをするときは水が溜まっている場所ではなく、流れのある場所で釣ること」だと教えてくれた。

 オレグさんはガイガーカウンター(放射線測定器)を携帯していない。浴びている放射線が、政府の基準値を超えていないことは分かっているからだと言う。「毎年、体内被ばくの検査を受けてるんだ。魚やキノコを食べすぎたら、限界値は超えるかもしれないからね。一度、値が高すぎるときがあったんだ。2~3か月したらまた来るようにって医者に言われたけど、次に行ったら普通のレベルに戻っていたよ」 「ゾーン」で働くもう一人の若者、ヴィラ(Vira)さんも同じ勤務シフトだが男性の同僚よりも注意していて、地元産の食べ物は口にせず、外部から運ばれてきた食品だけを食べている。しかし、ヴィラさんでさえ何年かここで働くうちに慣れてしまい、これからも同じような注意を続けるかどうか分からないと言う。「チェルノブイリに来たときは偏見でいっぱいだった。草は踏まないようにしていたし、野菜には絶対触らないようにしてたわ。けれどそれから、チェルノブイリの放射線レベルが基準を超えていないということや、長い期間ここにいても危険はないということが分かったの」

 年金生活者の夫婦、マリア・セメニュク(Maria Semenyuk)さん(73)とイワン(Ivan)さん(75)もやはり「ゾーン」内の村、パリチフ(Parychiv)に暮らす。日本の原発事故に関する情報が少ないことは、チェルノブイリの事故当時を思い出させると言う。「私たちは何も聞かされなかった。あの日は集団農場でリンゴを植えたところだったんだ。そうしたら当局から、みんなで3日間だけ避難するって言われたのさ。大変なことだなんて誰も思わなかった」。大災害だったにもかかわらず夫妻は2年後、チェルノブイリに戻った。今は森でキノコ狩りを楽しみ、地元の果実でワインさえ作り、訪れる人にグラスでふるまっている。

 しかし、パリチフ村は文字通り死につつある。家々は見捨てられたまま、屋根は崩れ、第2次世界大戦の記念碑だけが村の真ん中に残っている。チェルノブイリ原発事故の前に400人が生活していたこの村に、今も暮らしているのは9人だけだ。(c)AFP/Anya Tsukanova